JATANの10年を振り返って
設立の経緯
JATANは1987年1月に、前年9月にマレーシアで開催された国際会議において世界各国の熱帯林保護で活動する主要なNGOの要請があり、地球 の友、アジアの女たちの会、JVC、シャブラニール、日本消費者連盟、アジアの熱帯林を考える会などの活動家や学生たちが発起人となって誕生しました。
当初の設立運営資金80万円や事務所スペースも地球の友から借りるなど大変お世話になりました。また各団体からボランティアの参加やダイレクト・ メールのリストの提供その他、多大な協力を得ることができ、その活動が支えられていきました。当時、いくつかのグループがすでに熱帯林問題に取り組んでい たものの、全国キャンペーンというには程遠い状況にありました。
当時は横浜に事務局を設置した国際熱帯木材機関(ITTO)の第一回理事会が開催される直前で、同理事会には各国の関係NGOが大挙して参加する手筈になっていました。
それにあわせて様々なセミナーや直前の国際会議などを共催して、マスコミにも大きく取り上げられました。またJATANの活動を援護射撃するかのように、 当時シンガポール特派員であった朝日新聞の松井やよりさんがサラワクやカリマンタンの熱帯林問題を取材し、緊張感あふれるルポが数百万の人々に読まれてい ました。
主な実績
これまでにJATANが行ってきたことを総括すると、熱帯林をはじめとする日本を起点とした様々な国際的森林問題の分野において、パイオニア的な役 割を果 たしてきた事が挙げられます。森林問題に関わる日本社会の様々な企業・世界銀行・援助機関・建設や住宅関係政府機関などの関係諸機関の役割の調査やキャン ペーンに先鞭をつけてきました。しかし、その活動の組織化や継続性においては多くの問題を抱え、それを模索しながら現在に至っています。
また、JATAN は森林問題の全体像を捉えようとしてきたことにおいてユニークだと言えるのではないでしょうか。
即ち、過去様々な地域の森林問題を調べつつ、それらの底に 流 れている共通の原因の全体像を明らかにし、指摘してきたつもりです。しかし、このことは必ずしも他の多くの団体や関係者には理解されず、また理解を 広げる努力が十分ではありませんでした。
これまでの環境保護団体による森林問題の取り組みは、そのほとんどが個別具体的な森林の保護活動でした。それは保護の原点であり具体的な活動ではあ りましたが、世界各地の森林全体の破壊や劣化・消滅が継続的に続く現在、これまでの保護運動の方法だけでは、今日の人類社会が直面する森林問題の解決には 十分でな いことは明らかでしょう。
それは最近の国連レベルの「森林に関する政府間パネル」において、初めて森林破壊の根底に潜む原因に関する議論が行われたことか らも、そのような新しい取り組みが必要であることが、国際的に認識され始めてきたことを示しています。
一例を挙げれば、白神山地などのブナ原生林保護などが国民的なレベルで議論され、一部地域での保護区の拡大が行われたが、ブナ原生林破壊の根本原因に関しては、議論はほとんど行われませんでした。
実は、日本のブナ林伐採の多くはパルプ原料用のためのものであり、日本のブナ林伐採の減少は結果的に別の地域、つま りチリにおける南極ブナ林の日本向け伐採を、80年代後半から拡大させたのです。日本が森林資源をはじめとする自然資源の大量消費を続ける限り、それは世 界の他地域での資源採取の増加現象につながります。
このような問題にどう取り組むか、今後JATANのみならず様々な関係団体や研究者などの間で議論を深める必要があるでしょう。
1. サラワク、ODA、JICA---国内的基盤の確立
ITTOの理事会の直前にサラワクで先住民による大規模な伐採道路の封鎖が起こり、これを契機に最大の熱帯材原木輸出国であるマレーシア/サラワク に関する全国署名運動などが盛り上がり、その後全国各地に熱帯林問題や、サラワク問題のグループができるきっかけとなっていきました。
サラワクでは当時、プナン族などが封鎖活動をしている地域で活動していた伊藤忠商事の子会社の伐採道路へJICAや輸銀が融資するという問題が発覚 し、ペナン消費者協会のイブリン・ホン女史が来日して告発し、JATANも現地調査を行い、融資の不当性が国会で追及された挙句、同社は金を直に返済し、 事務所をたたむという事件も起こりました。
87年当時はODA問題を問う市民団体が動き出した初期のころで、このような行動はかなりの反響を呼ぶことになりました。
2. 熱帯木材問題報告書---国際的な声価の確立
JATANが取り組んだ第二の仕事は、熱帯木材貿易における日本の役割に関する報告書を出版することでした。
世界自然保護基金(WWF)インターナショナルのクリス・エリオット(当時の熱帯林問題担当部長)らからの提案と資金支援で、すでに英国や欧州での同様の調査を行っていたフランソワ・ネクトゥー博士との共同作業が88年から始まりました。
日本側は国内で入手可能な様々な統計その他の資料の収集、分析や、関係者、団体の訪問調査などを行い、ネクトゥー博士は国際的な視点での資料収集および経済学的な分析を行いました。
こうして1989年4月に英語版の報告書"Timber From The South Seas"が、10月には日本語版の「熱帯林破壊と日本の木材貿易」(ISBN4-8067-2215-4)が無事出版される運びになったのです。これは まさに時宜を得たものとなり、日本のみならず世界中で大きな反響を巻き起こすことになりました。この出版物の成功でITTOを含め関係者のJATANを見 る目が変わっていきました。
海外ではサイエンティック・アメリカンなど多くの専門家やマスメディアに紹介、引用されましたが、国内では林学関係者の 間で引用が抑制されるという不思議な状況が展開されていきました。当時は関係者の間では、熱帯林問題は腫物に触るような政治的にセンシティブな問題でし た。
3. 商社キャンペーンとその反応
この時期は「世界熱帯林運動(WRM)」に参加していた多くの国際的なNGOが日本での活動を支援するために、Ban Japan やボイコット三菱キャンペーンをはじめ、海外と日本の姉妹自治体キャンペーンなどがJATANとの協力で展開されていきました。
89年4月のWWF報告書公表の直後には、当時最も輸入量の多かった丸紅に「熱帯林破壊大賞」を贈呈し、伊藤忠・日商岩井・ニチメンなど熱帯材の主要な輸入商社へのデモなどの行動がピークにあった時期でした。
当時日本は森林問題で集中砲火を浴びていました。そのため黒田は、欧州など世界各国の会議などに参加したおりに、様々なマスコミの取材を受けまし た。日本の外務省は、これらの海外でのマスコミ報道などを各国の大使館に集めさせ、日本語に訳した分厚いファイルを作っていた、と知り合いの記者が知らせ てくれました。
89年秋に欧州への出張から帰国すると三菱商事より接触があり、当時設置されていた社内の地球環境委員会(委員長は国際業務部長)が、同社がどのような対策を建てるべきか意見を求めてくるなど、各商社は対策に追われました。
アメリカでもRAN (米国熱帯雨林行動ネットワーク)により、世界の熱帯林問題の7人の責任者として、世界銀行総裁やブッシュ米国大統領・サラワクのタイプ首相・ブラジルの サルネイ大統領などと並んで、当時の三菱商事社長の諸橋晋六氏の顔がニューヨーク・タイムスの全面を使った意見広告に現われました。
三菱商事は他社に先駆けて社内に「地球環境室」を設置し、世論対策に奔走しました。同社は横浜国立大学の環境科学研究センターの世界的にも著名な生 態学者である宮脇昭教授の協力により、サラワク・ブラジル・チリにおける同社の伐採事業地で、森林復元デモンストレーション事業を始めたり、他の企業グ ループは「熱帯林再生事業組合」を設置して、東カリマンタンなどでの熱帯林再生事業などを展開しました。
4. サラワク・キャンペーン委員会の設立---転換点
1990年には、サラワク問題を専門的に扱う「サラワク・キャンペーン委員会」を発足させて、「サラワク問題」と「自治 体キャンペーン」の分野をJATANから引き継ぐ形で、全国キャンペーンを強化していきました。JATANは巨大なインドネシアの問題やブラジルなど他の 熱帯諸国の問題のみならず、オーストラリア・ニュージーランド・チリなど世界中の日本の木材輸入被害者からの様々な要請にどう応えるべきか等々、 JATANの活動は長い模索の時期に入っていったのです。
90年以降、丸紅によるイリアンジャヤのマングローブ林の伐採、パルプ用のチップ輸出やタイ・ブラジル・チリなどでの ユーカリ植林問題などパルプ産業をめぐる問題が次々に発生しました。
さらにカナダでもアルバータ州の亜寒帯地域における巨大なパルプ工場建設など問題が次 から次に様々な地域で起こる一方、国内のキャンペーン団体はすでに「サラワク」と「自治体」キャンペーンで手一杯であり、どこから手をつけるべきか、なか なかよいアイデアが浮かばず、悩む日々が続いたのです。
5. 熱帯林からすべての森林へ
1992年には、チリ・ブラジル調査、93年にはカナダ・アメリカの温帯雨林地域などの調査を行い、日本の木材・森林資 源利用・輸入問題の全体像が見えてきたのであるが、このような巨大な問題の解決策をどこに見いだすべきか、その問題の中心はどこにあるかを探究する日々が 続きました。
1993年には、海外から関係者を招待し、カナダ/インドネシア問題に関する集会やキャンペーンを行ったが、このとき会 議に参加された神戸大学の住宅問題の著名な批判者である早川和男教授から、80年以降、日本における住宅問題がどのようなメカニズムで起こったかを教えら れ、日本政府の「都市再開発」政策・「内需拡大策」・「日米貿易摩擦」などと、海外における森林資源減少などとの関係が深いことを確認できました。
またこの時期に力を入れてきた紙パルプ産業問題では、紙消費とGDP/GNPなどの全体経済との関係を学びました。1994年には、紙パルプ植林問題ネットワークで「沈黙の森ユーカリ」を出版し、世界化した紙消費と南における産業造林問題に警鐘を鳴らしました。
タイにおける日本の製紙業界の造林事業計画などをめぐって、製紙連合会やJICAなどとの会合を頻繁に行い、またブラジ ルでのユーカリ造林やパルプ工場問題をめぐって、調査や議論が行われました。世界的にもユーカリなどの産業造林問題やパルプ産業のグローバル化に対応し て、国際ネットワーク作りが盛んとなり、JATANも日本の他の関係者と共にその一翼をになっていきました。
この領域では95年末にカナダのパトリシア・マーチャック教授の"Logging The Globe"が、96年秋にはWRMのラリーとリカルドによる"Pulping The South"が出版され、JATANもスマトラパルプという日本製紙/丸紅・海外経済協力基金によるインドネシアでの日本初の大型のパルプ工場投資問題を 取り上げ、工場建設やアカシア造林地のために土地を奪われる農民の支援を始めました。
6. 木材消費の全体構造の分析
日本をとりまく世界の森林問題の改善・解決のためには、最終的には日本の経済社会全体の方向性を変えなければ、根本的な 解決にはならないことは明らかでした。またこれは日本一国で解決できるものではなく、貿易関係などを含め、世界経済の方向性そのものが問われる問題でもあ ると考えるようになりました。
関係各国と日本との2国間貿易関係を比較してみると、「輸送機械」「産業機械」や「家電製品」などの機械輸出の見返りに、「木材」「農産物」「鉱物資源」などの一次産品の輸入を日本は行ってきました。
過去の様々な記録を見ると、商社や自動車産業、電器機械産業などは、見返り輸入を輸出先政府に求められ、トヨタや松下などの有力輸出企業は、その子会社の商社を通じて木材輸入などを手がけてきました。とりわけ熱帯諸国では、その傾向が顕著でしたが、カナダなどでも似たような問題が起こっていました。 70年代におけるツーバイフォー住宅の日本での認可は、カナダへの自動車輸出の拡大とも関係があるといわれています。
もちろん、貿易交渉を国内産業界が利用して、公共事業投資を拡大し、鉄・鋼・アルミ・セメント・プラスチック・ガラス・木材などの内需を拡大するなど、過剰生産のはけ口を生み出す政治経済構造が80年代以降、拡大再生産されていったことがわかります。
2年前にパプアニューギニアを訪問したとき、ニューギニア航空の機内で見た広報誌の最初のページには、トヨタやニッサンの一面広告があり、裏表紙には日立のブルドーザーの広告が大きく掲載されていました。日本は、この国との間で「木材」「銅」と「自動車」「伐採/鉱山開発機会」との、つまり「自然」と「機械」の交換を行っていたのです。この国のみならず、オーストラリア、カナダ、アメリカでも似たり寄ったりでした。
近年、「文明と環境」問題の議論が盛んになり、様々な研究や出版が行われただけでなく、「環境白書」にも登場しました。
シカゴ大学の著名な考古学者のメソポタミアの都市文明システム論などによると、古代国家の資源確保は資源加工センターを持つ「中心」と資源供給地である 「周辺」の関係は、軍事的抑圧以上に「貿易関係」によって支えられたとされ、単純な比較は禁物ではありますが、今日の日本の資源確保システムとの共通性を 考えざるを得ません。
同様に、クレタ文明の発展の基礎は、先行文明圏への木材輸出による資本蓄積があったようですが、アジアでは日本への木材 輸出で巨額の富を蓄積した華人系木材企業が多国籍化し、マレーシアやインドネシアからパプアニューギニア・インドシナはおろか、南米のガイアナ・スリナ ム、最近ではアフリカにも進出しています。最近では中国本土の企業も参入しはじめています。
日本の総合商社の関係者は以前から、JATANや海外のNGOが日本企業を攻撃すればするほど、華人系企業がとってかわり、状況はもっと悪化すると主張していましたが、それは現実のものとなってしまいました。
もっとも、たとえそのような批判が起きなくても、資源国に基盤を置く華僑企業の森林支配の拡大は歴史的な流れであることは否定できません。また最大輸入先の日本企業の代理人的な役割を果たしていると見ることもできます。
7. 国連システムと「森林問題」のための国際会議
92年に参加した地球サミットでは森林分野での国際合意は「森林原則声明」など、あまり意味のある対策は合意されませんでした。有力な木材産業を持つアジア関係国などの反発が大きかったのです。
その後、国連持続可能な発展委員会(CSD)の議論を経て「森林に関する政府間パネル」が設置されましたが、交渉の中心は各国の森林省であり、いってみれば森林問題の「戦犯」同士が解決策を協議するという状況で、議論の枠組みそのものが誤っていると言わざるを得ません。
しかし「森林問題」は林業に関する政府機関を超えた問題であるといっても、では誰が問題の協議・交渉の中心であるべきか、ということではCSDでは 十分討議されませんでした。今日の都市文明システム全体の問題を議論するという、本来「森林問題」の解決に不可欠な議論が、これまで国際社会のなかで十分 科学的に検証されておらず、議論もされてこなかったのです。
議論の中心は、「消費者/市場アプローチ」「木材認証制度」などであり、「全体のメカニズム」の検証はされていません。
むろんこのような「文明システム」の変革のような議論では、具体策・現実的な対策が出てこない、という議論が強いのも事実でしょう。これは、「気候変動」「生物多様性」などのこれまでの地球環境問題全体に共通する問題でもあるでしょう。